どうやら近頃、こんな考え方が蔓延しているような気がする。
興味は誰かが持ってくれて、それを優しく教えてくれて、自分がその場で理解できるようにして貰いたいらしい。
その場で理解できるように教えてくれないと、「あの人は教えてくれない、教え方が悪い」と言うし、
(自分で調べてみようとか、Googleで検索とか、考えてみようなんて言ってはいけない。)
仮に理解出来るようになるとあの人より詳しいと主張し、その後は一切シャットダウン。
(こっちがgoogleで調べているのに、、、自分で調べれば1秒以内に返ってくるのに。人に調べさせていることで満たされているのか?)
これがテクニシャンのプライドらしい。誰かの努力は、結果は横取りさせてもらうが努力している事自体が無駄。努力は仕事していないとみなす。
無理。。。
もったいない。
そもそも、興味自体が無いのか?
その様な人が実は評価が良くて重用される。そんな人はいらないと言ってる割には。
有能エンジニアの流出の入口はここから始まる。それも決まって上から。
もっとも、それを知ってて変えられないのがもっともたちが悪い。
マンハッタンに行った時のツアーガイドがたとえは違うが同じ話をしていた。それに嫌気をさして、あの街に住んでいるのかもしれない。
昔は、外人は、仕事しねーからという考える人がいたけど、実は、ちゃんと仕事をしていたのだと思う。
私もよく、あなたは仕事してないねと言われるが、アメリカのボスやクライアントからは、常に最高の評価を頂けている。評価の基準が全く異なるのかもしれない。
この話は、現代版の蟹工船かもしれない。防御策は蟹工船でのビラ配りと違って、逆に徹底的に出さない事。それを感じる多くの友人は共通して言う事がある。
「情報は徹底して操作すべき、選ばれた者だけが手に入れられる。選ばれなかった人間はじたんだを踏む。」
これで全て話が丸く収まる。
評価してくれる人に情報を流せば良いのである。評価できない人にいくら出しても評価はされないし、その評価をもらってもうれしくないでしょ。
このエントリを自戒も兼ねて書いているが、評価を出すことだけが重要ではなく、評価を出した後に如何に喜びや悔しさからくる力を与えられるかにかかっている。
もうきれいごとでは、どうにもならない世界。
結局はどの様に人に接するか。
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